神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

大谷司完 伝 ー信仰の兆しー

兵役を終えた景介は、川見商店に御礼奉公には入るのでした。これは当時の古い雇用関係に於ける決め事だったのでした。

これの終了後京都大丸の洋服部に就職するのです。そして洋服部のチーフとして業務を勤められていました。

君枝さんとの出会いもこの頃でした。実家が洋服商であった君枝さんとは職場結婚でした。

ある時景介は不思議な夢を見るのです。「高い山の登山をしていて、やっとの処で頂上までたどり着いたかと思うと、女神が現れて景介の襟元をつかまえられるやいなや、かわいそうじゃがと云われて谷底におとされた」のでした。

それからと云うものは、文字通り苦労の連続の生活となるのでした。この当時の事を次のように語られています。

「私の若い頃は苦労が多かった。なにしろお金が無くてどうしようもなかった。それこそ人生とは苦労する為にあるのか、と思われるぐらいに苦労させられたのです。神仏と云うものがござるものなら、何故助けて下さらんかと思っていました。あまりに生活が苦しかったので、人頼りしようとしたが、逆に騙されてしまって、他人に頼ると云う依存心を持たされない様に仕向られたのです。結婚しても自分達の食いぶちをも稼げんぐらいに辛いものになっていた」と新婚生活がまことに厳しいものであったことが伺えるのです。

家の生活がこの様な状態の時、君枝さんが病気になるのでした。家の経済状態が前記の通りなので病院に入院することも出来ず、体力の消耗を防ぐには蜂蜜が良いとのことで、薬局に蜂蜜を買いに行っても蜂蜜を一瓶買うだけのお金もないので、家の事情を店の主人に話して切り売りにしてもらいました。

ふとした時、染め抜き屋のばあさんからの紹介で、清涼寺の境内に神様の声を聞き、助言して人助けをしている偉い婦人が居られることを聞きました。

この時の事を司完師は次の様に語られています。

「その夫人が云うには、この世と云うのは夫婦あってのこの世じゃ。この世に太陽もあれば月もある。男女もあると云う様に夫婦あってのこの世じゃと。私はこの方は良い事を云いはる方やなと思いました。婦人は私が云うんじゃなく神様が云うてはるんじゃ。と云っていたが私は自分で云うてはるんじゃと思っていたのです。

二回目に会った時、私の妻に対する水臭い考えを指摘されました。女房に苦労さすばかりが亭主の立場であるまいぞ、夫婦は一心同体のものじゃ、それなのに自分さえ良ければ良いと云う考えではあまりに水臭いぞ。と私の考えていた事をバッサリとやられてしまいました。なるべくなら金の掛からん様に死んでくれたら助かるのに・・・等と考えていたのです。

婦人は、私は何も知らんのじゃ、神様が申されるのじゃ。だから疎かに聞きなさんな。これを聞いて下されて道理が解って下されたら奥さんの病気は一変に治る。と云うのです。

私はよく考え直しました。そして願治めの日に参ると、貴方も良く頑張りましたな、家に帰れば奇跡じゃ。と云われました。

帰宅すると丁度お母さんが来ていて、偉いこっちゃ、大事じゃ奇跡じゃ。と云ってバタバタしていたのです。婦人の云った通り病気が治っていたのです。

それからの私は信仰を疑わず、一生懸命やらんといかんと心したのでした」

この婦人の祭壇には石が祭られていて、その石に婦人の亡くなった主人が宿っていて色々を教えると云うのです。

その主人は生前愛宕さんの信仰をしていて、もし私が死んだらお前が生活していける様にこの石に入って守ってやる。この石を私だと思って祈れと云って死んだそうです。

「私は毎日の様にこの石の亭主に話をするのです。そして少しは良いくらしをしたいと思うならば人助けをしなさい。と云うのです。」

君枝さんの病気がきっかけとなって、初期の信仰心が芽生えられたのでしょう。