神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

密教 惟神の道(神人合一⑤)

◯ いまなるの月日のおもう事なるわ

(今、やっと神の申した事が成った)

◯ くちはにんけん心月日や

(言葉を出す口は人間だが、中身の心は神やで)

◯ しかときけくちは月日かみなかりて

(よく聞きなされ、口は神が皆借りて)

◯ 心は月日みなかしている

(心即ち霊は、神が皆、人間に貸している)

上記のことは、その後、みきの口より語られる「元の神」の教えの始まりとなっているのである。

これを「神懸かり」の状態と言うのです。人間の肉体は、霊魂の入れ物であると言うのはこれを指して言うのです。

元の神とは、霊の元(ひのもと)の神を指す。

みきさんが生活していた時代の日本は、住民は少なからず巫女や霊媒、いたこ、ゆた、等に色々の事を伺って善処していたのであった。みきさんの講、等にも神懸かりや霊懸りを起こして、懸かって来た「隠身(かみ)」に色々の事を聞いていたのであった。

その霊媒役の者は、御幣や鈴等を手に持っていて、あるいは踊りながら口を開いたり、あるいは、静座瞑想しながら言葉を発していた。

この霊媒役は「隠身」と紙が身に宿す神籬(ひもろぎ)の役で、霊媒に懸かって来た「隠身」に名を名乗らす役や聞き方の役をする人物を神判(さにわ)役と言う役もあって懸かって来た霊に色々と質問したり、正したりする役もあったし、霊媒役が神懸りを起こして語ることを記録する役も作られていた。

神懸りの方法で、天理教中山みき金光教金光大神黒住教の黒住宗忠も皆、この神懸り式で神の道を開いているのである。

 

『凡庸の道』第四巻下

(四)神懸り

神の御経綸が進展するに従い、世の中の変化も一段と激しくなりつつあるが、各地に於ける氏の神様(一家の祖先神)又は、産土の神であるとか、其の他権現様等の神懸りがあちこちで起こりはじめて、何も知らずに暮らして居る真面目な人とか、又神様事にすこしでも、因縁のある人達を頼りて盛んに不思議な御託宣(ごたくせん)を下されるので、それが広まり誰言うとなくこの世の中が立替えられる時期が迫って来た事を知る事が出来る様になるのである。

《終り》

密教 惟神の道(神人合一④)

神様の方から一方的に神定めされて人間に申し付けての神懸かりをする状態を天理教中山みきに見る事が出来ます。

天保九年十月二十三日の午後十時頃、中山家の家族に病気があったので、その当時お加持して病を治してもらう風習がありました。そのお加持の儀式をするには、加持台(霊媒の役)する人物を選んで、その人物に神仏を降ろしてその神仏からお伺いして、指示してもらうものが定番のものであったが、加持台になるそよが不在であった為に、やむなくみきに御幣を持たせて、一心こめて祈祷中に、「みきを神のやしろに貰い受けたい」との啓示があったのでした。

主人の善兵衛は、なんとなく不安になり、神仏にお断りをするのであるが、神仏の方では、どうしてもお聞き容れにならず、加持台にみきを使ったばかりに思いもかけぬことになってしまうのである。

その神様は「元の神」と申される神様であって、その場に居合わせて者全員で、みきを使われては困るので、みきの身体からお帰り願いたいと言うのであるが、元の神は一向にお聞きき容れにならず、みきの言葉は、いよいよ厳しくなって来るのであった。

そして「元の神の思惑通りにするのが神の言う事と承知せよ、聞き入れてくれたならば、世界一列救けきて、もし不承知ならば、この家、粉も無いようにする」と申される。

それから、夜を日についで三日の間、御弊を手にし、端座させられたまま、一度の食事もとらず、ある時は、静かに座っているかと思えば又、ある時は響き渡るような声で元の神のお考えを申される。

手は激しくゆれ動き、御幣の垂紙は散々に破れた。皆は、なんとかこの神様がみきの身体からお昇り頂く手段は無いものかと、相談を重ね、市兵衛にもはかってみたものの、事はすでに市兵衛の力の及ぶ処のものでははくなっていて、人々にもその名案と言うものがなかったのであった。

そして善兵衛は、事ここに至っては、元の神の申される様にお衣をお受けするより他に道は無いと思い定め、二十六日、朝の八時頃に「みきを差し上げます」と言ってお受けした。

その時、それまでの激しい様子も初めておさまって、中山みきの身体は神のやしろに定められたのでした。

時に、天保九年十月二十六日であった。

密教 惟神の道(神人合一③)

正法の修業に年季の掛かっていないにもかかわらず、霊覚や霊言が聞こえたりすると言う事、その事事態が「おかしい」と考えねばならん事なのです。だから、正法の修業には年数が掛かると言うのです。神様も最低十五年はその者の修業を見ないと信じられんと申されるのは、この事があるからなのです。

又、自湧神界の神の御教えを学ばんとするには、独習でも出来ん事はないのですけれども、正しい修業をされたお道の指導者には少しはついて学んでいないと、大切なポイントを知らず内に外してしまっているのですから、お道の尊師を選ぶ事も大切な仕事の一つです。

因縁にも依りますが、師を選ぶことが、自分の修業を定める事になっているからです。

この世に於ける学校でも小学、中学、高校、大学、大学院と言う学びの場に於いても、そのクラスによって先生のレベルが違う様に、心の学校の先生もその能力、レベルがあって、心の学校(霊的の教育に於いても)一定の内容を習得した先生に習っていないと、霊的の向上は望めないと言う事なのです。

神様の既存の教団も学校と同じであると申されています。従って他の教団で勉強して来たからとて、その教団で教えることが100%正神界に通ずるものではありませんので出来れば、一年生から入学して勉強させてもらわないと、解ったようで、実は解らんものを、一杯作ってしまっている事になっているのです。

 

密教 惟神の道(神人合一②)

祝詞の中にも「御霊鎮(みたましず)めの御技(みわざ)によりて、事の善悪をかえりみ、よって真実の道を守り」と書かれていますが、ここに書かれています事と、前途の「鎮魂帰神法」を指すのではなくて、正神の御教えを深く己が滞在意識に浸透させて、自己の本心、本霊の誠より良心の躍動を奮い起こして、正しい事に換起する方法を言うのであって、正常心を離れて己が心を邪霊、邪神の言いなりに、心を許し非常識的な人間となる事を言うのではないと言う事をシカと心の内に定めていないとその為に、人生の大損をしてしまう事になるのです。

その人物の言った通り、予言した通りになる・・・と言う事は、けっして正神界の働きのなされる事ではありません。

又、占い事を信じて、占った事が当たるから正当な神の計いであると言うのも、正常な考えではないと言う事なのです。

たとえば、自分が夢で知らされる事であっても、余りにも当たりすぎる時には、よく振り返って、ひょっとしたら私は何物かに、目を付けられてだまされかけていないだろうかと反省しなければいけない時でもあるのです。

悪霊と言うものは、その当たるのも「ワシワ正しい神である」と対者から信じさせたい為に仕組んでいるワナの始まりでもある事に気付いていないといけないのです。

神様が「正法に不思議なく、奇を好むなかれ」と申されるのは、この事を申されるのでして、神とは奇なり、と思っている人にはよくよく注意せねばならん事なのです。

未見真実行の修業の内に、幻覚や幻聴等が起こって来た時には、なおさらの事、ここに言う事に注意していないといけないのです。

密教 惟神の道(神人合一①)

神人合一とは、本来神様の方に都合があって、しかして神様が人に近づ給いて、人と合一される事を意味するものである。

しかるに、古神道に於いては、人の方から神を求めて、神様の方に人偽的に合一しようとする作法も含めた「神人合一法」と言うものが作法として作られて、一つの方式に基づいて、その様に実習する事によって神と通ずることが出来るとされたものがあって、これも◯◯式と言ったものがあり、近年に於いては「本田式」と言う、明治の本田親徳氏の古式をまとめられたものが、有名でありますが、今だ心の定まらぬ(即ち神の心に叶っていない)者が、この種の方式により念を疑して、たとえ霊通する様なことがあったとしても、それは正神ではなく、邪悪の目的を心に持ちながら、外面は善人を装ったものに、たぶらかさせられてのものが大半であり、畢竟は、精神病者に陥ることとなることが多いので、正神界に於いては、この「鎮魂帰神法」と言われるものに関しては禁止されて、それを行わない様に仕向けられているのです。

従って、正しい神の道に出会う迄にすでに何らかの霊物と霊通している様な人物に対しては、一時的にせよ、その事を無視化して、一から正しい神界からの内流を受ける方法に切り替えていないと、大きな恥をかかされる事になるので、くれぐれも霊的を求める修業者は注意を要する事なのであります。

霊物による人間に対する関与と言うものは、当人の知らず知らずの内に、その人物の内心に忍びより、当人の意識しない内に、その内心を変えられてしまっているのですから、大変霊的なことは恐ろしい事になっているのです。

密教 惟神の道(御神業③)

従って、このお道は、解る人には解り、解らん人に解らんと言う、既に立て分けられた道を言うのですから、解る人を自発的にさがして、解る人から学ばんといかん事になっているのも事実なのです。

大谷司完師も有りの儘に神意を伝えられ、しかも、この正神は一切答えと言うものをだされぬままに、司完師を霊界に引き上げられてしまっているのです。

答えの出し方も、それぞれの身魂相応に、それぞれ自分で出して行きなさいと言う方式なのですから、こうでないといかんと言うものもないのですから、それこそ、自由的に進めて行けばよいのです。これを自由神界の信仰と言うのです。

この道を知った人は、従って、身魂相応にその人らしく、この道を理解して、その人の出来る範囲に於いて、体力、経済力、理解力に応じて、出来るかぎり神意と言うものを第三者の人達に、お伝えして行けばよいのです。

そして、その修業の状態を神様がお認め頂いたならば、日本国中の人達全体を相手としてお伝えして行けばよいのだぞ、と国土神は申されているお道なのです。

「翼を下さい」と言う歌があります。この大空へ悲しみのない、自由の空に飛び立つ翼を下さい・・・と言う詞が歌われています。

自由神界とは、一切の執れから脱することの出来る心の自由性を持つことの出来る心使いを持てることを教えられるものなのです。

今迄の神仏の教えと言うものは、この心の自由性を本来持つ事の出来る人間本来の心の自由性の翼をもぎとり、不自由にさせていた内容が在ったのでした。

その為に、対立性を強め、宗教が主張の為に戦争迄すると言う事情を作ってしまっているのです。これは神様の御性格そのものの中に、自己主張が強すぎているものとも考えられるものなのです。

お道の指導者に融通性が失われているとその考え方が、末端の信者迄その考え方が多く影響されるものなのです。教えの本たる指導者の悟りの悪さも、そのままに末端に迄およぼしているものなのです。

密教 惟神の道(御神業②)

この様に、大切なしかも、偉大な天意の計りの中に進められているものなのであるのですから、その使命は、神、霊、現の各界に於いても同時に進められるものでもあり、それこそ、言うに言えない、説くに説けないものなのであるのです。

従ってあまりにも大きな事業を進める事なので、それぞれの身魂相応の理解力で理解して行くより仕方のないものであると神様も申されている深い内容を秘められているものなのです。

真神は、まず、大谷司完師に本人の都合など一切かかわらず、霊界を在りのままに見せられて、霊界の真相なるものを、ありのままに認識させられ、それを又文字として残されて、又、これを信じようと信じまいと、それも全てこの世に持って生まれた因縁の霊性のしらしめる処(既に神界から立て分けられて生まれて来ている為、仕方のないものとなっている)のものとなっているのです。

従って分かる人には分かるが、分からない人には分からないと言うのも、自湧性から生まれて来ているものなので、分かる人は、どしどしこの世で、神様に代わって実践して行かんといかん事になっているのです。これもご神意なのです。

ですから、この様な事情をよくわきまえて信仰していかないといけないと言う事が、神様の御用に仕える者の常識ともなっているのです。

この様に「惟神の道」とは全て神の御意志のままに、天地人、一切が動かされている仲にある事を認識して、活動する事を言うのです。