天的信仰の求めるものは。如何にすれば神意にそった信仰が出来ますかと言う処に主眼があり、神と成る為の目的が内容されているのです。
その為には、その人が神界の為に何をしたか、と言う事が条件として担保されるのです。神界の為に何か尽くすものが無いとまず、神(天使)にはなれないと言うことです。
霊的信仰は、如何にすれば、自分の精霊の為に役立った信仰が出来るか、と言うことに目的があります。霊的に向上することがその目標になります。言うなれば如何すれば神に近づけるかと言う事と同じです。
信仰の目的は、基本はここになるのですが、今迄の信仰ではそれが転化されて、教祖や教団の為にと目的をすり代えられていたのです。これは先祖の供養についても同じことが言えるのです。
肉体を持った人間は老人になると何かと他人の世話にならないといけない(肉体が老化する為に)ですが、死して霊界に行くと不自由な肉体なくなり、精霊のままとなるのですから、精霊はそれぞれの心の思うがままに、自湧に行動しているので、他人様の厄介には掛かる事はないのです。
従って教団等が慰霊殿を建てて、そこに自分が祭られる事によって救われると言う考えは、教団が、特に独身者はその人の死後、誰かに供養してもらわんと浮かばれん様に教えては、その人から子孫から、永代供養をしてやるからとて、大金の供養料を集める為の政策を作っている様なものです。
霊界の当人は、そんなに供養してもらわんと困ると言う状態になっていないのです。
この様な考え方を持つのは、自然界(現世)に生活している間に、物の世界のことわりにいつしか囚われて(迷信的)いて、霊的信仰をしていなかった為に、この様な考え方にさせられていたからなのです。
だからその人の精神も大切にするのではなくて、その人の亡きがらや、骨を大切にしている宗教家達のエジキに掛かってしまっていたのでした。