自湧神界の信仰のルールは、正しい信仰の自覚にあります。
○ 正しい信仰とは、一切の事は「自己責任」であると言うこと、全てを自分の意志、自分の決意で信仰すると言う事にあります。この「自己責任」と言う言葉は、この選ばれた自分の人生そのものが、この自己責任の意志決定のままに定められていると言うことなのです。
従って、他人頼(ひとだよ)りばかりしていると、本人は他人のせいにしていると、正神は怒られるのです。「無責任」を問われるからなのです。
株の売買も、あらゆる契約事も、全ての意志に責任を持たねばならんのです。これはきわめて常識的な考え方なのですが、今迄の人生観や信仰観には、他に責任を持たす考え方が主力となっていた為、これはいかんと神様は指摘されているのです。従って自立する様に教えられます。
○ 正しい信仰の自覚とは、正信(せいしん)すると言うことです。
正しい信仰とは、単に一時的なものでなくて、それは最後迄つづけることであります。最後とは、死ぬ迄と言うことを意味します。正信とは一方的に片寄っていない事なのです。
個人的な好きとか嫌いとかに執れず、それこそ「信仰の為の信仰をすること」を意味します。一般的には(今迄の信仰では)他人との義理とか、人情とか、役であるとかで信仰はするのではないのです。
信仰の為の信仰とは、人間的執れから離れて、人として、この世に生まれて来た以上は「神を知る為に」「永遠の霊性の目的」を自覚する為の信仰なので、教団とかが唱える「私的に設定された」その教団の為に都合よく作られた目的の為の信仰等でもなく、特定の寺院等で因襲的に伝えられていた人造的に作成されたものでもなく(迷信的な信仰)、信仰の為の信仰をするのです。
○ 自湧神界では、正しい信仰の教えと言うものを示されはされますが、基本的には、個々の人の意志の自由性を尊重されます。
信ずるも信じないも、好むも好まないも、求めるも求めないも、その人の自由意志を尊重されるのです。この教えの中に他人の意志を強制するものは一切ありません。
まして「◯◯を信ずるは、こちらの方を信ぜよ」と言うものもないのです。この様な動きの中にはすでに強制する意志が働いているのです。意志を決定するのは、当人の自由意志なのですから。よく教団内にて発生して来る、各種派閥間の信者の取り合いもないわけです。
又、こっちが正しく、向こうが違う、と言う様な言い合いもないのです。皆、自由意志で決めていないといけないのです。
そして途中で自分が違った選択をしていたと解ったならば、自ら反省したならば、又自ら軌道修正しておけばよいことなのです。
自ら他から強制されることもありませんし、自ら他を強制することもないのです。本当の自由意志の尊重です。良い事をするのも自発的ですし、他から言われてするものではないのです。
入るのも退くのも、自由なのです。『来る者拒まず、去る者敢えて追わず』の精神なのです。