神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

密教 惟神の道【拘束神界】

(拘束された旧神界)

永い歴史の中に、人は、他からの指導や、強制に慣れてしまっていて、却って自発的なものよりも強制される事の方が楽なので、その方(強制)に易きに決定してしまっているものなのです。この様なことがいかん、と神様は申されているのです。

明治維新以降につくられた国家神道の中にはこの様な強制的なものがあって、国民は一切この思想に強制されて、個人感性も認められないものでした。そして戦争にと駆り立てて行き、結果は敗戦の苦しみを味わされたのでした。

人には色々の考え方と言うものがあって、それが個性と言うものですから、人の色々の考え方と言うものを尊重しないといけないのです。

お互いが色々の考え方を尊重し、助け合い、尽くし合わないと神の理想とされる、人の理想でもある「地上の天国」等は到来して来ないものなのです。この理想を伊都能売(いずのめ)と申されるのです。(自由の発送)

自分の主張する主義やイデオロギーと言うものを他に強制し、言う事を聞かなかったならば他に制裁を加えると言う考え方は、全て「我れよし」のご都合主義の考え方であると言う事に気が付かないといけないのです。

 

(自湧神界)

○ 自湧神界の信仰、即ち伊都能売信仰は、言うなれば『無抵抗主義』なのです。相手の挑戦を一つひとつ受けていたならば、又戦いの世界に入ってしまいます。「裁き」は神様にお任せするのです。これが出来ないと、真の信仰とは言えませんし、真の平和は求められませんし、真の修業が出来たとは言えないのです。

従って、この様な考え方には、忍耐がいりますし、納得の為の時間も掛かるものですから、一切を神様にお任せすると言う、絶対の信仰を神様から問われる事になるのです。

 

○ 神のお道の見解は、全て「公序良俗」がこの世の中心でありますし、又「国利民福」がその政策の目的でもあるのです。

 

○ 『無抵抗主義』の神の御用に仕えるには、一切の武器を持たずの、無手勝流の方式ですので、神の御加護を頼りとせねばならず、その様な状態が発生した時には、個々の力強い念力と、神徳により守られる、と言う事なのですから根底には「神様絶対の信仰」があっての人材となっていることがその条件となっている事は間違いない事なのです。

 

○ その人物が出来ているかいないかは、その人の生き方を見ているより仕方がないのです。世の中の「負け犬」の様になって、病気をして苦しんでいたり、借金で苦しんでいる様な人ではまずないのです。

その様な人はまず、「生きる道の聖者」としては、聖者とは言えないからです。「口だけの聖者」ではいけないのです。「その人の生きざま」がそのまま証拠として見られるから、まず間違うことはありません。