神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

大谷司完 伝 ー教団との別れー

第二次の大本事件発生の匂いは二年程前(昭和八年頃)から感じられていた。教団の幹部の講話の内容や信仰者の集会での話の内容等はすべて特高警察の内定調査が始められていて、何某は何月何日何処でどの様な話をしていた、という記録が進められていた。

この様な流れをすでに感じられていた司完師は、核心に触れる様な事はなかったのでした。

司完師に張り付いていた人物は吉川徳芳でした。

ある時本人に「貴方は職業がら仕事として私につきまとわれていますが、本来の貴方の霊魂の求める処のものは、その様なものではない。そんな仕事をやればやる程、心の中に大きな矛盾が出来て、心の悩みの大きな種を作ってしまって、如何にもならん事になる。貴方は純粋な心の持ち主なんだから、私から別にこうせよとは言いませんが、出来ればその様な職業から離れた方が良いと思われます」と歯に絹着せずにハッキリと言われたのです。

吉川氏はこの言葉がキッカケとなって、警察を辞められ熱心な信仰者へと変わってしまわれたのでした。人との出会いによってこう言う様に人生を転換する人もあるのです。

教団での修行中の話しの内容としては、自身の神様が申される教えを六分、教団で教えられる神様の教えを四分程度として話されていたと伺っています。

信仰者側とすれば新鮮なものが感じられるので、他の講師の話される内容とは別の魅力もあって、多くの人気を持たれていたのでした。

神様直接による教育は、大正十年から昭和十年迄、十五年を経過していたのでした。神様のお考えでは信仰する教育年数はおよそ十五年を目処とされているのでした。

昭和十年八月十日に本部に帰任しました。出口王仁三郎氏から別宅を用意され、そこで4ヶ月間程、個別に伝承されていたのでした。

この頃に出口聖師が書かれた『三十六歌仙』の歌集と愛用の杖も頂かれていたのでした。

 

この頃、二四歳で結婚した奥さんの君枝さんと離婚することになる。

それを出口聖師に報告されると「そうかそれは仕方がないな、貴方も厄年やさかい・・・」と言って厄にかこ付けて、それにも囚われるなとの言葉が返って来たのです。

一八年の夫婦の別れだったのでした。自身は身の回りの品を、みかん箱一ツにまとめられ、その他一切は君枝さんに渡されたのです。

昭和十年と言う年は、人生の大きな転換期でした。四十二歳の厄年でもありました。函館の大火で焼け死にそうになるわ、離婚、教団は第二次の事件となって潰されるわで散々でした。

司完師にも警察の手が廻ってきました。天皇に対しての考え方を問われるものでありました。不敬罪にて摘発しようとしていました。

五条署の房内の鉄の格子の隅にピカッと小さな光る物を見つけるのです。それは、京都の菓子の中に混入してある数ミリの黄金のエビスさんの形をしていました。

それを御神体として朝晩祈って居られたのでした。

ある夜、等身大の恵比寿が現れて「吾れは事代主之神なり」と申されてこれから吾が名を称えよと申されるのでした。そして「教団での修業はもうこれからする事はない、吾が神徳を述べ伝えるべし」と申されるのでした。

五条署では「お前は落第じゃ」と言って釈放されるのでした。

落第とは当時の警察用語で事件に出来ない事です。

司完師は、出口家に対して御礼奉公を六年間続けられるのでした。六年間の御礼奉公とは、出口聖師の留守宅への援助でした。

その後、出口聖師の釈放のお祝いの席で五条署で事代主之命神が現れた話をされると「それは良かった。大谷さん、事代主之命とは恵比寿さんの事やで、処でわしはな大国さんなんやで・・・」と答えられたのでした。

この教団では出口聖師の事を素盞嗚男之命であると伝えられていますが、ご本人の申されている事とは別のものを作り語られてしまっているのでした。

司完師はこの教団とも因縁があり、因縁果たしの為にもこの教団で修業をせねばならなかったのです。

又「私と出口先生との間には切っても切れない因縁がある」と語られて居ます。