神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

密教 惟神の道(御神業①)

五千年前、日の本の国の霊性低下による国力の衰退を予見された瑞霊の大神様(正神界の大天使)は、主之大神様より御内流を受けられて、地上に於ける御神業を展開される事になったのです。

五千年前に現れ給うた事代主之命様は、この瑞霊神よりのご内流を受けられて、日本に於ける御神業を展開される事になり、まず、霊の元の国に於ける霊止種を確保、教育されて、その霊止種を中心としての日本の再生をお計りになっての御用を給わっているのです。

これを最後の御神業と申されて、今日迄多くの神人を通じてのテスト的な御用も実施されて、これ以外には良い方式はないとの神意のもとに、自湧神界との方式、本霊中心の信仰(本来の惟神の道)を再生させ、日本に於ける精神の規範を計り、日本精神の再生と、霊の元の国の自立、発展により、正しい国是と言うものを確立させることにより、世界に於ける真の民族の自立発展、平和を念願されておられる御用となっているのです。

その中には、正神界と言う神々のご活動とそのご神徳をスムーズに受け止めることの出来る、正しい信仰を実修することや、真の霊的知識の涵養する事により、日本人としての真の霊性復帰により、正神界のご神徳を給わることにより、社会の浄化を計り、既存の悪習慣から脱する事の重要さや、迷信を打破する事の大切さや、人間を立派にする為の真の人間の養成教育を安定させて、真の国力を立てなおさねばならないと言う大きな意味を含有されているものなのです。

密教 惟神の道(天的、霊的、自然的③)

この舌屋が世の中から消えないと、世の中はよくならないのです。裏(心)も表(風体)もそのままの人格者が出来て来ないと、世の中はよくならないのです。

特に「惟神の道」では、実践主義なのですから、教団に於いては、教祖や教団に依存する信者多い処から尊い話は聞けども実行心がないので、耳だけの「天国」を作ったり口と舌だけの講師が多発して、ペラペラと喋るのは上手ですが、その人の意志と行動は一つも霊的に定着することがないので、真の真神のお加護を得られないので、お道が少しも進展しないのです。

しかして残るのは舌だけと、耳だけの「天国」がつくられただけのこととなっているのです。

何度も何度も人生の貴重な経験を重ねることによって、その人生は、より力強いものとなって、人生の悔いのないものとなって来る。その人の心意気は青春そのものの続きである。悔いはない。生きていくことは大変だけれど、素晴らしいものなのです。

自分の人生は、自分だけのもの。誰も自分を助けてはくれない。又、それをあたにしてはいけない。例えつらく、つまづき、苦しんでも生きて行かなければならないのだ。それら全て、神様がごらんになっておられるのです。

良し悪しにかかわらず、全て自分で決断選択して行かねばならないのです。泣き言を言って世の中のせいや、親や他人のせいにしてはいけないのです。全ては、永遠の自分の霊魂のしらしめる処のものなのです。

自殺などして、人生の逃避等をすると「なさけない弱虫よ」と神様から怒られるだけのことなのです。現世と言う処は、霊魂の修業場となっていて、修業の為に生まれてきたのです。

正神が地上に現れ給うて、直々の教えをされた以上は、今迄の様に古典や国文学的な教えを作って、信者達に言ってみた処で、今まではそんな事でもなんとか信者をだましておられたが、これからは、そんな教えで茶を濁す様な事では、真人間にはだまされないので、自ら馬謖(ばしょく)を表して、恥をかくことになる。

密教 惟神の道(天的、霊的、自然的②)

特に独身者は、宗教家達の言葉に感化されて、本来精霊と言うものは、自主、自立性のあるものである事を忘れてしまっているのです。

この世にある内に信仰を求めて感激と感謝のある人生を心に作られた人は別に当人が求めなくても、天国に霊籍が作られているものなのです。(永代供養料はその人の天国の霊精料の担保とはならないのです)

理想と言うものは、覚悟と経験がないと実現出来ないものなのです。信念がブレていたらむづかしいものです。

従って、この世に生活している内に、自分の心が天国化(安心と感激のある心の働き)されていないと、死後、天国には住めないと言う事なのです。

この世に生活している間に心中に地獄を作っていた人が、その人の死後は、天国に行けるはずがない(相応の霊界)のです。

それを供養料が収められたからとて天国の生活代に切替えられると言うことはあり得ないものです。

本当の事を知ることを、見真実行と言うのです。これを知らないと正しい信仰をする意味がないのです。

人格とは「霊主体従の法則」により、外面よりも、内面が大切であり、そのバランスも大切なのです。(まして内面が最も大切なのです)

生きる道に大切なことは、第一に、何が善いことで、何が悪いことかを知っていないといけないのです。

マスコミでは、舌屋(ベロヤ)と言われる人達が活動している。その人の舌だけが正義で、やっている事はそれとは別に悪い人格を持っている人なのである。

単にコメンテーターとして何でも口と舌で言うだけで仕事をしていると言う人物が流行しているが、一枚めくれば、悪人として逮捕されているのです。

この様な人格を偽善者と言って、悪人なのだが善人をよそおって見せているだけと言うことなのですが、案外この種の人格者は、宗教家に多いものでして、信者は、口と舌だけでだまされているのです。

密教 惟神の道(天的、霊的、自然的①)

天的信仰の求めるものは。如何にすれば神意にそった信仰が出来ますかと言う処に主眼があり、神と成る為の目的が内容されているのです。

その為には、その人が神界の為に何をしたか、と言う事が条件として担保されるのです。神界の為に何か尽くすものが無いとまず、神(天使)にはなれないと言うことです。

霊的信仰は、如何にすれば、自分の精霊の為に役立った信仰が出来るか、と言うことに目的があります。霊的に向上することがその目標になります。言うなれば如何すれば神に近づけるかと言う事と同じです。

信仰の目的は、基本はここになるのですが、今迄の信仰ではそれが転化されて、教祖や教団の為にと目的をすり代えられていたのです。これは先祖の供養についても同じことが言えるのです。

肉体を持った人間は老人になると何かと他人の世話にならないといけない(肉体が老化する為に)ですが、死して霊界に行くと不自由な肉体なくなり、精霊のままとなるのですから、精霊はそれぞれの心の思うがままに、自湧に行動しているので、他人様の厄介には掛かる事はないのです。

従って教団等が慰霊殿を建てて、そこに自分が祭られる事によって救われると言う考えは、教団が、特に独身者はその人の死後、誰かに供養してもらわんと浮かばれん様に教えては、その人から子孫から、永代供養をしてやるからとて、大金の供養料を集める為の政策を作っている様なものです。

霊界の当人は、そんなに供養してもらわんと困ると言う状態になっていないのです。

この様な考え方を持つのは、自然界(現世)に生活している間に、物の世界のことわりにいつしか囚われて(迷信的)いて、霊的信仰をしていなかった為に、この様な考え方にさせられていたからなのです。

だからその人の精神も大切にするのではなくて、その人の亡きがらや、骨を大切にしている宗教家達のエジキに掛かってしまっていたのでした。

密教 惟神の道(金を欲しがる教団)

例へば、教団に多くの献金をすれば、死後天国に行ける・・・とか。

教団内にて作られた役職や立場を得ることを目標回避ならしめて、それを得る為に適当な競争をさされる・・・とか。

良心の働きとはまったく別の方向に向かわされてしまっている事も、分からなくさせられているのです。

組織内に起こる教師中心の派閥の争いに利用されて、それに追従している事があたかも、信仰の真であるかの様に錯覚している事も分からないのです。

悪い事をして、良心の苛責のない様な心の働きでは、神の道には仕えがたい。

天の定めた流れの内に、人の運命も定められているものがある。神の定められたものは人がいくら逆らおうとも、神思のままに動かされていると言うことである。

天の定めに偽りはない。神に二言はない。神の申された通りになって来るものである。

天の定めに、人がいくら抵抗しようとも、無益なことなのである。これは全て、時が解決する様になっている。

 

「神聖」これは、如何なる者も犯してはならない、これは人のつとめである。

 

「信仰」の最終の目的とする処のものは、神人合一である。神と霊通し、神意を大衆に伝えられることにある。神の直接内流を受けられる事にある。

スウェーデンボルグは、彼の霊界の見聞とそれに依り教えられた「神の教え」と言うものは「新しいエルサレムと天国が誕生するための神の教えである」と言っている。それは、今のエルサレムではなく、イスラエルイスラムと、そしてキリスト教界が、皆一致協力して新しく創り上げる為の神の教えであると示しているのである。

そして、大谷司完師の霊界見聞に依る神の教えは、新しい信仰を持った新しい惟神の道を国是として定めた(法律で定めた)国家、即ち日本の国のことを示しているのである。

古い信仰を持った国家は、昭和二十年の8月十五日で消滅してしまっているので、それを新しい神の教えで立て直されるべき神の原点であることを暗黙の内に語っているのである。

密教 惟神の道(選択)

宗教の選択、政党の選択、人物の選択に於いても、何等外から、もしくは他からの圧力意見を述べられたとしても、それらの外圧等に己の考えを他に妥協したり、他の考え方に屈することなく、自分の考え方を大切にして、堂々と自分の考えを大切にして、意見をのべ、行動すること。

正善とは何か、正義とは何かを、自分の良心に従って自由に判断、又行動することの出来る心の働きを言う。

この偉大な良心の働きを活発、滑脱に自湧的に行動する人生の生き方を本霊中心の信仰と言うのです。

既存の約束事等にもこだわらず、自ら善を信じ、真と信ずる事を信じて生きて行く道のことを言うのです。既存の説、既存の場所にも一切こだわることなく良心的活動をすることを言います。

 

(目的とするもの)

本来の宗教の目的とする処のものは、何宗何教にも言えることは、この良心的活動の旺盛な人物を作り上げる処にあるのですが、その目的を回避させて、宗団、教団の都合のよい人物を執れさせて、養成してしまっていてまことに狭い料簡の人物(いわゆる信者)を作っていたのでした。

その為に宗団、宗派間の対立を増すばかりで、神の希望される平和とは別に、戦争をさせてしまっているのです。

密教 惟神の道(良心の働き)

本霊の働きとは、自分の心の働きとしては「良心」の働きを言う。

この良心と言うものは、何が善であり、何が悪であるかと言う事をよく知っていて、自分の心の中で色々と教えて善導する。

しかし、現代人の良心は正に良心の働きと言うものが全く麻痺してしまって、本来の働きをしていないから、仮に自分が悪い事をしても「良心の苛責」と言うものが起こらないので、ついつい悪を行ってしまうのである。

従って人間性の回復の為にせねばならん事は、良心の強い働きの出来る人物を養って上げねばならんと言うことになるのです。

従って教育の本盲とする処も、此処にあるのです。

今までの教育は知育重点性のものですから、頭の良くて悪い人間ばかりを育てて居た為に、この様な世の中になってしまったと言えるのです。

 

それぞれが、それぞれの持つ「良心」の働きに恥じない人生を過ごしていないと、この世の中は良くなると言う事がないのですから、良心の働きの強い人物の養成に努力し合う事が大切なのです。

 

(昔の信仰)

昔の信仰は、肖(あやか)り信仰が主流であった。

中国や朝鮮の進んだ文化や思想、即ち仏教や儒教に肖って我が国に取り入れた。又、天皇や王候、貴族がするからとて、それも肖っていたのだ。

大きな仏像を造ったり、大きな殿堂を作られたことにも肖り、それに便乗していたので、異民族に発生した思想や宗教に迎合し、我が国内でそれを発展させた。この事は、ひとえに我が民族に自主性のなさが原因していた事でもあった。

国土の神様は、この国を立て直す為にはまず、日本国民の「自主性、自立性」をまず培われる事を念願されているのです。

そして、本当に我が国に必要なものは一体何かを日本人の手で取捨選択して、良いものは進んで取り入れ、この民族に相応しくないものは、勇断を以って排斥せねばならん時が到来しているのです。

儒教等により、占い癖を取ること、仏教等により人生を諦める考え方は、いかがなものであるかを考えて見たら良いのです。西洋から流入された「合理主義」についても、よく考えてみるのもよいでしょう。