神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

密教 惟神の道(一神教・多神教)

霊の元の神の教学では、『神は一神にして多神、多神にして又一神なり』となっている。

一神教のみにもあらず、又多神教にもあらず、日本の神教を、単に多神教であると限定してはならんものである。

他人を個人信者にする為に、神の教えを説いているのではない。尊い真神のおわし座すことを伝え、その人本来の力量、力徳を発揮しやすい様に、既成の概念に拘束されている人々の考え方を発散させて頂いているだけのことなのです。

それ以外に何の目的も持っていないのです。唯、人様が幸せになって頂ければ幸いなだけのことなのです。

 

(神を信ずる)

自分の人生にいかなる悲惨な事実が発生して来たとしても、神様を恨んではならない。正しい信仰を放棄してはならない。この人生に起こって来ることは全て、神の御慈愛の元に現れた事となっているのである。

 

(ウソの教え)

昔、おばあちゃんが女の子に対して「トイレにはそれはそれは美しい女神様が居て、トイレをきれいに掃除すると、その女神様のお蔭を得て、その子は美しい女の子となる」と教えた。それは汚いトイレを進んで掃除さす様に子供に知恵付けした親の考えだった。

それよりも「これは好い」と思ったことは自ら進んで皆の嫌がることでもする。正直な人間になることの方が大切なのである。(子供をだまして、大人の為に利用してはいかん)

 

(理想)

理想郷は霊界に存在していても、自然界(現世)にはない。それは神様が作られるのではなくて、人間自身が相互に理解し合い、人間同志が協力し合って作り出さねばならんものなのです。これは、いくら待っていても来ません。前向きに努力し合って作りださんといかんものなのです。

密教 惟神の道(因縁の人)

神様の人の使い方は、一人ひとり、原始の因縁を見定め給うて、新しい神界の尊いお光を身魂に与え給いて、元の霊魂の働きに再生なさしめ給いて、まったく、その霊止らしくその霊止の霊的個性を尊重され給いて、活動する様に自主性をそのままいかされているのですから、道の開き方もその人らしく開かせられるので、一つもこだわることなく、道を開かせ給うて居りますのであります。

それは、それぞれの表現の仕方と言うものは異なっていたとしても、言わんとする処のものは、皆、同じであると言う処に処されているのです。

それは、昔から八百萬神々(やおよろずのかみがみ)と言われるのは日本国民の事を指して申されるのであり、神国とは、日本の国土全体を指して申されるのであるのです。

大谷司完師による『霊界の見聞』によって人生のものの見方、顕幽に一貫した価値観の訂正が行われることにより、今迄、大切にされて来た事柄も、その価値が無用のものと化すと言う一大改革が進められることになったのです。

その第一に宗教の改革があります。その一つに神観の改革であります。

二十一世紀の信仰観、神観の見方として『神は堂宇の中に居座さず、人の心の中に在り』と見真実行の結果から言われる様になったのでした。

旧神観は、神は殿堂の中におわしますものとして、祭式があり、献饌があり、祝詞の奏上等が行われていたのです。これがちがっていたと言う事になると、大変な事となるからです。

密教 惟神の道(内なる神)

二十一世紀の宗教は『神は殿堂の中に居坐さず、霊止(ひと)の心の中に在り』と言う事となるのです。

世界の平和は、世界の人類の願いではありますが、世界の国々の中でこの平和を祈っていましても、ナカナカ本当の平和はおとずれません。

この平和は、恐ろしい原子爆弾を持つことと、恐ろしい殺掠兵器の持ち合いとの滞在的に他国に対する威圧感を持つ事による平和の維持なのですから、これは少しのバランスの崩れによって、すぐに失われてしまうのであります。言うなれば、かりそめの偽りの平和なのです。

いくら平和を祈っても、その祈る人の心の中に、争いの心、他を排斥したり、いじめの心が消えないかぎり、真の平和は訪れないからなのです。

人を差別する心や、特に自分だけ特別視する様な心を持つ人物が、世の中に憚る間は、道遠しなのです。

特に宗教家達の中にその心の働きの取れない人達が存在する様な事では、なおさらの事と考えねばなりません。

老若の差別をしたり、新旧の差別をしたり、教祖の家と信者を差別している様な処が存在している間は、真の平等と平和等来るものではありません。

この様な世の中になったわけは、人は他人の心の中の事を真に見分ける事が出来なかったと言う事と、相手の考えている事を読めなかった為に、多くの誤解を作った結果が生じて作っている世の中であるとも言えるのです。これを霊的無理解が生じた事であると言えるのです。

これが解決の方法は、天地の神の創造の御目的なるもの(即ち神心)を正しい信仰を求める事により、人生を正しく悟ることによりてのみはじめて解決出来るものと信じているのです。

 

密教 惟神の道(天国)

天国とは何をさすか。

それぞれの持つ理想を実現出来ることである。

しかし、ここで言われることは、個々の自分勝手の我がままの実現ではないと言う事なのです。このそれぞれの理想の実現を進めると言うことの根底には、相互恵の精神がないとよくないと言うことなのです。

いわゆる助け合い、譲り合い、尽くし合い、と言う思いやりの精神が出来ていないと実現しにくいものなのです。この精神こそ「神心」のなす処の心の動きなのです。

この互恵(ごけい)の心は、信仰力によってのみ養われるものなのです。自分にあるものは、有形無形にかかわらず他にも分け与え合う、と言うのは、神心の働きなのです。

悟りに於いてもそれを我が利益のみ独占して、少しも他を顧みないと言うのは、社会全体の発展を阻害することになるので、神様は、特別とか独占と言う事は、忌み嫌われる事となるので、賢者は第一に注意し、そうならない様に注意すべき事なのであります。

密教 惟神の道(自主・自立)

その神様のルールとして、日本人にはまず自主性、自立性、自発性をそだてないといかんと申され、他に一切依存する事のなき様に訓練を仕向けられるのです。まして、他人の依存から、まず開放されるのですから、宗教に於いても、既存の教団の様に教祖への依存等からも開放され自立した信仰を求める様に仕打ちをされているのです。

頼るのは、生身の眼に見えないが、実在される神のみ頼りにして、単なる人間には頼ってはいけないと申されるのですから、先生とされる人達からも自立して、自己の本霊神を頼りにしての信仰から始められねばなりません。

自主の人生を作り、他に頼らない人生を送ると、力強い人生となります。組織の中では(特に宗教の団体)の中では、幹部の先生を頼ってその人を担ぐ為の、支持の派閥が出来てくるのも、自分の考え方に支持させて、他の指導者に行かない様、信者の取り合い等が発生し易いものですが、これも、神を信じず、人を信じている為に起こるものなのですから、これも他人に依存しているなさけない問題なのですが、神様は「人を頼らず、神を頼るべし」と申されていることを忘れてはならんものなのです。

もし、この様なことが起こっているのなら、それぞれは、よくよく自分の考えを神の教えにより見直さねばなりません。

惟神の道は、神第一主義である事を忘れてはならんのです。他人の意見等にまどわされていたのは、自分の考えを大切にしていないから起こるのです。シッカリとした自分の考え方を持っていない処から発生するのです。

自湧神界のもう一つのポイントとするものは、一切がその人の自己責任の人生であり、信仰であると言う事なのです。

密教 惟神の道(学識が邪魔)

高学歴である程に、霊的な御用には仕えにくいのである。(自然界の学問をしている程、理屈が多くなって素直に神様の申される事を信じにくいものである)

自湧神界という神様の最初で最後の、それこそ一度きりの神界が、国土神の命を受けた唯一の事代別けと言う天使の手を得て、この地上に初めて誕生したのでした。

この自湧神界の神のルールは、大谷司完師が神の意志を受けて文字にされた。これこそ、最初で最後の一度切りの真神の伝えられた真実の神の伝えられた「惟神の道」と言われるものなのでした。

このお道は、その神の伝えられし、まことの神の道と申されるものでして、一人、ひとりの霊魂に魂として、伝えられているものなのです。

この神の地方に於ける拠点は昭和四十七年八月二十六日に拠点を作られ、五十年以前にその種を播かれていた。霊魂等が時を得て、縁ある人々に集められ、神の御意志を得て、自湧的に活動する様に、神が定められているのです。

5千年以前に、霊の元の国の自滅して行く姿を見そなわし給わった神々は、この一度きりの神の神策の種を播かれていたものが、今、天の時を得て、裏から表へと御用を進められて来られたのであります。

 

(日本人の霊止種 神の目的にあるもの)

平成二十二年に宮崎県で発生した、動物に感染し、宮崎牛の種牛として大切に守られて居た、種牛迄にその疫病が感染してしまって、全頭、他に感染させない為に屠殺してしまわないといけない様になり、社会的に大きな問題が発生しました。

人間の方にも、五千年以前の神様の日本人の真人間の霊魂の霊止種(ひとだね)と言うものも、外国にて発生した日本人の霊性から見て、ふさわしくないと考えられる宗教の教えに汚染され、霊の元の霊止種としての働きができなくなってしまう。

日本人の霊性を何とか守り育てて、その人達の働きによって、この正に滅ばんとする日本を活性化さして、救いの元種としないと、日本の将来は無いと案じられた国土神の神の教えを伝えられているのですから、神様からの何度もの試験のテスト等を越えての人材育成となっているのです。

密教 惟神の道(勝ち負け)

勝負には、勝ったとしても、心の世界(霊界)では負けると言う事がある。

自然的には(世間的な眼では)負け犬の様に見えても、心の世界では王者となっている人もある。この事を教えられるのが、神人の伝えられた神の御教えなのである。

これは、何を指すのかは、それぞれの心の中で学んで下さい。これを霊的教えと言うのです。

一般的に考えてみて、自分を人生の敗者の様に見えていても、霊的には、勝者となっていることの大切さを教えられる教えなのです。

継承事の中には、霊的と言う物や形、技法と言う形式で伝えられるものと、伝えられないものとがあると言う事を理解していないといけないのです。

特に霊的と言う心や精神に於いて、伝えると言う事ほど難しい事はまずないのです。それには師弟の関係においても、信頼の関係がシッカリと出来ていないと、継承は特に難しいものとなっています。

心から心、魂から魂に伝えられると言うことは、力強い絶対の信頼関係が出来上がっていないと、まず、継承はありえないものなのです。

弟子の為に師匠は、犠牲になるとか、その弟子の借金を償う事が出来ると言った関係が出来上がって居なければ出来るものではないのです。

神人と言う人物には、自分の正しい後継者が出来るまでこの世を去るという事が出来ないので、それ迄死ぬことが出来ないのです。

人間の種類の中には、本霊と言う神の分体分霊としての自分と、精霊の働きとしての自分と、又、肉体人間としての自分との三種あると、見真実行者は言っています。

精霊と言うのは、霊体の中に本霊が入って活動するものと言われています。そして肉体の中に精霊の入っているものを人間として、言われるのです。

いわゆる神の子としての資格を持つ事になる本霊(霊学的には本守護神と言われる)と精霊と言われる正守護神と又、肉体をいう副守護神(人間心と言うもの)とに区分されることになるわけです。

精霊と言うものは、男体の肉体に入れられますと、男性としての働きとなり、女体の肉体の中に入れられると女性として働きをすることになるわけなのです。従って生死を繰り返していても、本体たる精霊、即ち人の霊魂は同じ実体なのです。

霊魂は何度も生死を繰り返していても、本体たる精霊、即ち人の霊魂は同じ実体なのです。

霊魂は何度も生死を繰り返して、男となり女となり、永遠の修業をしているわけとなっているのです。この事を宗教的には、輪廻、転生をすると言われているのです。

この時、輪廻とは、人が又人へと生まれ替わることを言い、転生とは、犬、馬、牛等から、人へと転じて生まれ替わることを指しているのです。

人は生死を繰り返して、次には、神となるべく、霊魂の修業をしているのを、人間と言うのです。

これを宗教的に理解していないと人として、この世に生まれて来た真の目的を知らん事となるので、何の為の人生なのか、その真の意味を失っている事となっているのです。

その為に地に足のシッカリとついていない人生観なので、その様な人を迷った人、即ち亡霊と言われるのです。