神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

大谷司完師説話集 71

・救世主とは、「いずのめ」に同じである。人間各自、大小の差はあるが、皆、神の代表であり、救世主になれるのである。

・人間の悪心を監督する恐ろしいものが各人の腹の中にある。これを本霊と言う。吾々は自分の腹から笑われん様にしなければならぬ。

・主一無敵の信仰とは、主とは瑞霊神であり、瑞霊神の御理想を伊都能売(いずのめ)と言う。この主の命により人類救済の御使命を受けられたのが事代主之命であり、これを現界で行われるのが大谷司完先生である。

・主一無敵とは、敵(邪霊)が誠の信仰をしていると寄り付かない事である。

・もの事は、総てその上に立つ人の心に相応して良くもなり悪くもなるものである。集会、お祭典等、全てそうなっている。

・信仰には特権階級を作らない様にしないと、正しい神の教えが無茶苦茶になる。

・国土の大神様のお働きは、霊界では非常に力強いものがある。

・天の裁きは心通りに出て来るのである。

・体より心を大切にして良い事を思わなければならぬ。修行は体を無茶に働かすのは下手である。

・神心になることはお人好しになる事でない。

・子孫の事と思い過ぎて、やかましく言いすぎると、逆の現象が起こって来る。

・直らん癖直しをして上げたいのがこの教えである。

・人の出来ない事を与えてもらう人は神心がある。

・学問を鼻の先にぶら下げている以上は、神様に可愛がられない。学問は相手をたたきつぶし、上になるものがある。学問も正しい神様の事に使えば、これ程良いものはないが、大体は反対の事に使っている。

・良い言葉を多く使うこと。

大谷司完師説話集 70

・カラスがウになる様なことや、真鍮が金になる様な無謀な頼みをせず、自己を知って、唯一生懸命その立場で、さとらなければならぬ。自己を忘れた芸当をしていると吾身を亡ぼす。

・今度の御用は一般大衆を浄化する道である。ここの教えは知識的でなく、情的である。腹に入れるのである。学校や講習会ではないので、頭に詰め込む必要はない。一つづつよくかみ分け、腹に入れてもらわんと力が出ないのである。

・徳を積まなかったら、三文の値打ちもない、体得してもらいたいのは、信の力実行型の人になる事である。

・霊界の学校は、ものを教えない。唯三つ四つものをおたずねになるだけである。世間的にものを習うと、ごまかしが上手になるだけである。今の教育の知識は、一つの範囲からはみ出したものは、解決がつかんのである。

・今の教育を神様は「お神楽」と言われる。口だけ達者で中味がないからである。

・他人は中々物事を聞いて下されるものでないから、そのつもりで気短ではいかん。大勢の人に向かっては厳しい話を聞かせなければならんが、個人的には、あなたはいかんと言う様な事は言わない方がよい。

・相手を広い心の中で泳がす位にならんといかん。

・自分が神の代表であると思って堂々と講話しないといけない。でないと真に本霊の働きが出てこないのである。そして日本人として、かくあるべきを言う。この道を説かねばならん。

・他宗の事を上げて悪く言ってはならぬ。

・お話は遠慮は禁物である。自分を卑下していては、神の働きは出てこないのである。自分で自分の話の癖をよく聞いて直すこと。話の速さなども、適当な速さを持たんといかん。

・日本ではまだ七分通り旧道徳が入っているから、天真爛漫になっていない。この点注意して親は子供に対し、旧道徳を教えない様にしなければならぬ。

・外国人でも惟神の道を知った御霊は、今度生まれて来る時は日本に生まれて来る。

・神主さんは祭式はするが、道を教えて来なかった。

・今までの惟神の道は言い伝えが多い為、これを正しく伝える人がなかったのである。

・お道を腹に入れて頭抜けてしまうと、言わなくとも一人対千人の相手ができるのである。

・吾々は何からでも自分の心を満たす様なやり方をしないと駄目である。

大谷司完師説話集 69

・悪いものを排除するやり方ではいかん。改心さすのである。自分でも宜り直しをしなければならぬ。吾々のやることは根本か人間改造をすることである。

・この教えは、根本的にやり直す道であるから、既往の概念は棚上げしなければいかん。

・事業の失敗位は又やり直せばよいが、この頃自殺する人の多いのは、思想の弱体化によって、自分的に参ってしまっている。

・この世の中を生きようと思えば、八大神通力が必要であると、お釈迦さんが言われたが、丁度その時代になって来た。

・神様のやり方は物事が間違えていると成り立たん様にして行かれるので、一人改心するのである。

・自分を信用し過ぎてもいかん。どこまでも下座しなければならぬ。自分から目を覚ますのである。めぐりの取れた人は中々ない。唯取れた様に見えているだけである。人にチョット尊敬されたら、有り難いと思えばよい。

・野望を持つと野望をたつ様にされるのである。人を頼らず、神を信じ、頼るのは教えである。

・誠は神から流れて来るものである。人間からは誠は出ない。偽物である。人間は誠をさせて頂くのである。

・肉体が助かるのが救いでない。魂が救われんといかん。みたまを救うところに宗教の特質がある。

・盲目に生まれて来て、眼が見える様にお願いするのは無理である。これはめぐりを取る為のものであるから、罪亡ぼしをしている人間を良くしてもらう様に頼むのは神則違反になる。生前のあやまりを訂正する為に生まれて来て修行しているのであるから、それを元に戻す事は出来ないと言う。自覚することが必要である。壺坂のおさとが沢布の目を明けてもらう様、無理な願掛けをしたのであるが、これは観音様だからこの様な無理な願い事をさばいてくださったのである。やはり一応は死んだ状態にして目を明けて下さったのである。死の状態にならないと魂の入れ替えは出来ないもので、こう言うお蔭はそうざらにないのである。

大谷司完師説話集 68

・同じ人間でも神の教えを無視した人間は、次は日本に生まれられない様になっている。

・これは子孫に伝えても良いと言う教えが一家に確立していないといかん。

・八方ふさがりになることは、その人を直さんが為の天のいましめである。

・誰でも守らんと損だと言う教えでないといかん。

・人間はいつも神を思わんといかん。想うと言う事は近づくことである。

・やれるだけ自分で七分通り、人頼りをせず努力して、後どうもならぬ様になったら、一服していたらよい。後の三分はお助け下さるのである。我が子の教育も同じ。七分の努力をさせ、もたれ根性を持たせぬ様にする。

・何でもかんでも、人の秘密を知り、言って歩く神はヤクザ神であるから、こんな神と一緒になったら大変である。

・『凡庸の道』は天人の思っていることを全部書いてあるから、これを実行し癖を直すと、良い処へも行けるが、おだらをやっていると、お気付けがあるから、十分注意して置く。これは神界から来ているから厳しいのである。

・起きた問題に気をつけて、『凡庸の道』を見てもらうと解るのである。

・私はだいたい『天使の声』で終わりたいと思っていたのであるが、どうしても本読みになり、腹の中に入って居らんので、『凡庸の道』をだされたのである。

・『凡庸の道』には一つの目に見えん権威が付くのである。だからこれを守らんと恐ろしいのである。これは人間が本気の癖直しをする為の神のお慈悲であるから、軽率な考えは禁物である。

・宗教は大衆からかけ離れた様になってしまうと、その価値を失う。威張りちらしたり、奥に入ってしまったりするのは、大衆から離れてしまっている。大衆宗教にならんといかん。貴族宗教ではいかん。

・人間は道行きを間違っていると、どんな道を知っていても駄目である。お道をわきまえた上で、自由に活躍するのはよい。

・苦労を知ったものでないと生き花が咲かない。

・油断をして財産とか名誉などを思っていると、道が狂うのである。

大谷司完師説話集 67

・神様になんとか、と言う誠心がある人は、人を喜ばすことも自然に出来るのである。

・改心せよと言わなくても、自然の摂理によって、嫌でも改心さされるのである。

・自分の我とかが勝ってしまい、赤恥をかく人もあるが、これを人が善悪を裁いてはいかんのである。天がお裁きなさるのである。

・聖場に参ったら汚さぬ様に謹んで、参拝しなければならぬ。

・人から兎角言われる内に、神の教えで一家を浄化しないといけない。一家を浄化せずして、泥足で他家へ行っても、あまり効果はない。

・何事でも心から喜べる様になれば、天のお与えに対して感謝の心が自然に湧くのである。

・人の心にどうして神の御心を流し込むか、その修練をつまねばならぬ。

・現世の生活は一時の気なぐさめみたいなものである。

・地獄がなかったら人間の魂は目をさまさん。正しい神にそぐわん事は、皆地獄となって展開している。地獄界の見聞の時は、その地獄に相応した心にならないと、見聞できないのである。

・魂の安定にも色々あるので、その人に応じた処に置いてあげた方がよいので、あながち高い処が良いとは言えんのである。

・六十歳になって童心になれない人は、修行の出来ない親方の様なものである。

・どこ迄行っても人間は無一物である。無一物と思えば無尽蔵である。

・お金も良い事に使えば、又戻って来るのである。

・与えられた自分の人生を、より良くする処に人生の意義がある。豊かな気持ちで人生を有意義に過ごす様勉強すること。これは『凡庸の道』を生活化することである。

・神があるか無いか解らんではいかん。自分の心境さえ変化すれば、先祖や神の実在が解って来るのである。

・人間は誰か教えてくれるとか、怒ってくれる人がないと、のほほんとなってしまう。

・誰でも良い事をし、道をはずさん様にと思っているのであるが、肉体を持っている哀しさで、つい色々と失敗するのである。

・親は子孫に対して責任があるから正しい道行きをしなければならん。

・人間の肉体はあまり良い事は出来ないが、心を高める様稽古すると良い。

・出来るだけ神様の御心に叶う人間にならなければならないが、それを強制するわけにはいかん。人が人を罰することも出来ん。『凡庸の道』を謹んでそれをするしないも本人の自由だから、やらんからとて怒るわけにもいかん。成るべく自発的に努力してもらいたい。

大谷司完師説話集 66

・不幸はその時その心の持ち方で造ることが多い。日常自分に弱みになる様なことはせんこと。

・色々やって行く内に、人の知らない体験が出て来て、チョットやソット位で、びくともせん人間になるのである。

・今の社会に一人でも正しい秩序を持った人があると、大きく世の中を良くする良い種をまいたことになる。だから「世の塩となる」と言う事は、清らかな正しい行いをして、社会の為に尽くす事を言う。

・霊界では魂にこたえる処迄、辛い事をさされるから、改心ができるのである。

・神主さんや、坊さんや、と言われなくとも徳のある人にならなくては、本当のものでない。

・人間と生まれて一番最後のものは、天の声を聞ける様になる事である。これは程遠い事であるが、その為には目先の欲に執れず、一生懸命やらなければならぬ。

・二百年位迄は、霊界の事はハッキリ解らなかった。

・教団は教祖が亡くなると、教団経営の為、教団悪と言うものを作るからいかん。最初は良くても、継ぐ人が悪いと駄目になる。代替わりになると、あってもなくても良い様なものが出来上がってしまう。

・悟りがないと、永くやっても何もならんので、心の持ち方を一つづつ改めることが必要である。

・どこかにいかん点があると、神の御意志に叶わんから、立替立直しをされるのである。

・三歩進んで二歩後戻りと言う、固いやり方をしないと、人の心の中に誠を蓄積することが出来ない。

・人をおだてたりして発展させるわけにはいかん道であるから、中々進展が容易でないが、影となり日なたとなって、人間的におせっかいせず、霊界からの支配によって、自然に立替立直しされて行くのである。自己の功者でなく、神まかせの生涯をやらなければならぬ。

大谷司完師説話集 65

・誠の道を行じて三年から四年には、そろそろ良い結果が出てくる。

・何も大した御用をせよと言わぬ。心の持ち方を七分気を付けて頂かんといかんのである。

・教えは世の中にほうきではく程ある。だから余程、吟味しないと、金を取られてしまうのである。信仰は自由であるが、同じ信仰でも尊い神の道を求めねばならぬ。

・日本の教えは書物ではなく、口伝えにより伝えられ、代々の親より血の中に伝えられている。良い考えを出そうと思えば、清らかな心にならねば、腹から善い言葉が出てこないのである。

・贅沢は何時までも続くものではない。早く本当のものをつかまえなければならぬ。

・自由とは神様の道を、自由に勉強せよと言うことである。決して我儘せよと言っていない。

・成功すると親の恩を忘れるがこれはいかん。社会の恩(神の恩)を忘れない様に、神の道を取り次いで下さった人の恩を忘れないこと。

・知らずに良いことが出来たと言う様にならんといかん。

・不足を言う事は、内面向上の為に一番悪い。

・悪い事はすぐに出来るが、良いことは中々出来ない。それは悪い事が多く腹に入っているからである。社会の為とか人の為にならない事はしたらいかん。人間を改心さすには悪もないと改心出来ないから、悪も又善であると言える。

・師の恩、親の恩、社会の恩がないと、人と人との雰囲気を良くすることは出来ない。心から相手をいたわる心が通じるのである。まごごろは人の心にも浸み又、物にも浸み込む作用がある。

・清め祓いと感謝の心が人間の心を綺麗にする。祓いをしなければ、綺麗にならぬ。