神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

密教 惟神の道(神人合一 神の御心を悟る[理解する]②)

自分の欲しいものは、他の人々も皆、同じ様に「欲しい」と思っているものなのです。その様なものを他人に無条件で与えることが出来るか、と言うことなのです。

自分の心が他人と対立するのは又は対立してしまう様な立場になってしまうのは、よく自分の心の状態を調査してもたならば、何か自分にとって、損得・利害の心の働きがあって、その事から相手を悪く言ったり、傷つけた言葉を発したりしてしまっている己の心の働きを見付けることが出来るのです。

その様な心は神の心ではないのです。己のご都合主義の心なのです。それに気付けば、神心に習って神様にお詫びし反省しないと霊的向上はないのです。

宗教はこの「神心」の勉強なのです。

人生の目的も、この「神心」の勉強の為に生まれさせられたのです。

神の御教えと言うものも、この「神心」を教えられたものなのです。なのに、その目的以外の目的にいつしかすり替えられてしまって、教団人や、組織の為にと作り替えられている。作り替えられた真理のあることを知らないといけないのです。

御神書の中には「教団のお広前の中には、思わぬ落とし穴が隠されている」と、この事を教えられているのです。

神力と言うものは、女性の若さに必要なコラーゲンの様なもの。老化が多くなると、肌がたるんで来る様なもので、心の若さを保てる為には、神のお力が薄れて来ると、心の潤いがなくなり、心が下方に垂れ下がって来る(老化)ものなのです。

神の教えを真説に受け入れると言うことは、「霊的信仰を求めること」と同意なのです。

密教 惟神の道(神人合一 神の御心を悟る[理解する]①)

 無抵抗主義を口にし、それを実行出来るか

◯ 一切を神様にお任せする。

◯ 抵抗しない。

◯ 右の頬をたたかれたら、左の方も「どうぞ」と言えるか、と言うこと。

◯ 自分の生命に関する様な事があったとしても、神様にお任せ出来るか、と言うです。

◯ 自分に敵対して来る様な人物が現れても、その人を争わず、関わらず、神様にお任せすることが出来るか、と言うことです。

公平にものごとを自分の考えで見定めることができるか。

世の中の思想の左右、上下、事の善悪の思想の流れにあっても、他人の考え方に左右されず、自分の考え方を大切に出来るかと言うこと。

自分の作った善悪の思想に加担することなく、神様のお考えをシッカリと持つことが、自分としてもちつづけることが出来るか、と言うこと。

 

世の中には、彼の考えに、賛成か反対か、いわゆる、彼と敵と味方のどちらかを迫られる様な事があったとしても、自分は、神様としての考え方を一途に守り通す事が出来るか、と言うことです。

惟神の道を歩む人の考え方としては、何派ですかと他から問われたら、私は神様派なのですよと言い、又それを守り通すことが出来るかと言うことなのです。

 

組織というものの中には、考え方の違った多くのグループ(派閥)に別れて、党を組まれ勝ちのものが出来るものです。考え方が適しない為に、自分の知らない間に思想的な敵にされてしまっていることが多いのです。他から如何に考えられていたとしても、誤解を受けてなくとも、自分の一方的に片寄っていない考え方を大切にしているか如何か(伊都能売思想)が大切なのです。それが、神心に習っているか(惟神の精神を持たれるか)と言うことなのです。何かに片寄っていないかをたえず自分の心を神判しているかが大切なのです。

人間の誰かと、敵か味方かと言うことよりも、神様のお考えで人をみているかと言う事の方が大切なのです。

 

 

密教 惟神の道(教育の必要)

日本人の精神のより処は、ここに基づいてないといけないのに、敗戦後は政教分離の法律となっているので、日本の現状では政治や教育に宗教的なものを入れてはならない、と言う事になっている。(これは、戦前戦中の日本精神のはき違いから好戦国民性を造っていた間違いを繰り返さない為に、アメリカにより骨抜きにされて為、経緯もあっての事で・・・)

しかし、日本民族の将来の為には、正しい基の本来の信仰心が作られて、精神の帰趨する処が定まっていない処から、この国土には発展も防衛も望むことは出来ないのです。

瑞霊神の御神業の示される処は、まさにここにあるのです。この至神、方針から外れていないかと絶えず思っていないと道を外れているのです。

(自分の売名行為があったり、教団的になって過去と同じ事をしていないか考えてみること)

密教 惟神の道(惟神の道③)

惟神の道の大要とは、

「敬神(けいしん)」・・・即ち神(真神)を敬う事。

「崇祖(すうそ)」・・・祖先を敬うこと。

「忠(ちゅう)」・・・国から頂いている、有形・無形の御恩恵に対して、何かで恩返しすること。

「考(こう)」・・・自分の生命を与えて下さった御両親の恩恵に対して、何等かの形で、その人らしく、ご恩返しすること。

 

神様のお働きとは、まず第一に大自然の働き摂理、そのものに感謝し、霊的(即ち心の世界で)その自然の摂理を大切にし、感謝のある生活をしていること・・・これ等のことを一切含めて、敬神、崇祖、忠、考、の四つの大要の含めたものを太古から『惟神の道』と言い伝えられて来た道の事なのです。

神様のお考えから申し上げますと、日本民族は、世界の民族からみられても、一番初めに作られた民族。即ち人間の家族で例えるならば「長男」の民族であると申されていますので、長男は他の兄弟姉妹から考えても、一家、一門としての責任も重く、その為に、神様も厳しく鍛え上げられているので、他の兄弟よりもその鍛え方が厳しいと申されているのです。

宗教の形に於いても、他の民族の思想内容は、キリストや釈迦、孔子孟子老子マホメット等、聖人の教えで成り立っているものではなく、日本の国では、一つの宗教(即ち国教、惟神の道で成り立っている処)となっているものですし、昔の天界は、さしずめ日本教の教祖さんであったのでした。

日本教の教祖は、たえず真実の信仰をしていて、神様(国土神)との霊的交流があって、神の御意志を大衆に伝えられる能力を持っていることなのです。この事は、各教団の教祖クラスの人物にも、同じ事が言えるのです。

 

密教 惟神の道(惟神の道②)

国の教えとは「国教」のことであり、国の定めるものとならねばならんものなのです。

政府によって閣議決定され衆参の両院で法制化されませんと、国の教えとはならにのですし、現在の日本の法律では、「政教分離」となっているのですから、この法律も如何様に変化されて行くか、それも見ものです。唯、教えを受けた者としては、見守られて行くだけのことなのです。信仰する者としては唯、信じているだけのことです。

かつて大本教団で修業し、独立して、明道会を立ち上げた、医学博士岸一太郎氏は、その著者の中に「国教確立論」(国家の宗教の必要性)と言うものを述べられている。

岸氏の明らかにせんとする道は、同一名目の下に、従来許多の国学者や、神道家が横論縦説して居るのであるが、いかんせん奇魂という、一魂の理解がない為に、其の所説が本会の説く処の大道と、既存の神道の説く処のものと、大なる「くいちがい」のあるを免れぬのである。

従ってそれ等の学者の説明は、抽象的となり、想像的となり、遂に儒仏の所説と大した逕庭(けいてい)無き所の哲学論や観念遊戯に陥って、神の威力とか霊験とか言う活事実(かつじじつ)とは益々遠ざかるに至ったのである・・・と述べられている。

ここに言われる「奇魂(くしみたま)」の理解がないので・・・と言われる処は、正に「瑞霊神」の説かれる「神智」の活用がなかったので・・・と言う意味と同意であり、正にご尤もの事であると申したい処にものであります。

そして又、日本の再建には、国教が確立していないと、それは成り立つものではないと論破されているの処が面白いのです。

惟神の道とは、日本人が認めようと認めまいと、日本的霊性を規範とした神の定められた唯一絶対の信仰となっている。これに基づいて、日本人の心針とするものがあり、神国と言われるものもここから生まれている。

本来は「神様ならでは、世も明けぬ国」となっている。

密教 惟神の道(惟神の道①)

惟神の道と言っても、明治維新頃ににわかに人造的に作られた惟神の道は、世界との戦争でその信用を落としていますので、母なる神様がその失敗を取り返されて、その霊の元精神を正しく立て直されて、この神様にその出来上がり(仕立て上がり)を見せられるご用が、瑞霊神の御神業となって表れているのです。

その為に司完師は、今世においては洋服屋となって多くの人達の霊性を仕立直されていたのでした。前世には「和服」の仕立屋として生まれておられたのでした。

 

惟神の道は、以前では「教育勅語」の中の文章で表現されている様に「この道」なのですが、以前の「この道」は「かくあるべき姿」として「この道」が、人間的即ち日本人のあるべき姿として、人智にて作成されたものでした。

明治維新の時、新しい日本のあるべき姿を短い時間の間に天皇に代わって作成された(岩倉具視神道の社家にあった公家が作ったものとされている)のを天皇が作ったと語りつがれていたものだが、神意と言うものと、その中に「霊的な内容の裏付け」と言うものが無かった為に、天皇と伊勢の神も惟神の道と言うものも敗戦によって一瞬のうちに大切な信用を落としてしまったのでした。

その結果、なんとか大切な霊の元の本来の信用と言うものを取り返したいと母神たる瑞霊神が現れ給うて、父神の落とされた信用を取り返し、日本の国民性にも正しい自覚をお与えなされて、今後は国民自信の手によって、上からでなく、下から「草の根」の働き努力によって、それを取り戻したいとお考えになる御神業が、時代の先を見越されての昭和十一年(開教の年)より。司完師を通じて進められて来た教えが「瑞霊神」による御神業なのです。

しかもそれが大切なことだと国家が取り上げて下さる、と言う形が既に神様の仕組の中に計画されての事をしめされているのですから、これぐらい、アンビリーバブルな想定は予想もしない事なのです。

この神様の御計画された事は、必ず実現されて来るのですから、私と師から密教として教えられているのです。「神に二言なし」です。神様の申されたことは「必ず」実現して来るのですから。人は唯それを見届けるだけのことなのです。

密教 惟神の道(日の本の国)

神様は、「日本民族は世界の人類の中でも長男の様な資格を持たせてある」と申されています。その長男たる者が、霊的な順序(神様が定められた霊徳のこと)を忘れてしまっている為に、長兄としての威徳と言うものを損なっている為に、次男や三男、はたまた四男達から疎かに扱われてしまっている状態となってしまっている様子なのです。

例へば、それは中国や朝鮮、アメリカ、ロシアから圧力を掛けられて真の力を出し損なっているのです。

これは日本民族としての自覚と自立心が無いからなのです。

愛国心を持とうと言ってもそれがハッキリと解らないので、教育の方針も、政治の指針を何処に置くべきか、福祉のポイントとするものも掴みきれないものとなっているのです。

今問題となっている親子の関係や、家族と言うものも何を基本とすべきかも解らず、古い儒教の思想とか仏教やキリスト教から、間に合わせているにすぎないので、何事もスッキリとした方法がとれないのです。

日本の国は、神様を本旨として全てを成していないと纏まらない国柄となっているのですし、神様は親と子の関係は「鳥」に習えと申されているのです。