神は実在する

「神は実在する」前田孝師の本のタイトルです。師の想いを発信していきます。

密教 惟神の道(信仰)

「正法」に不思議なく、奇を持って導くなかれ」という正神の定めがある。

霊的と申されても、不思議や奇跡を他人に求めさすのではなく、それは常識を以って導くべきである事を示されるのである。

神様が理想とされている地上の天国と言う世の中は、神懸りや霊能者達ばかりの言う非常識な世の中ではなく、きわめて常識的である世の中であるのです。いわゆる狂人に近い人達の作る世界では無いと言う事なのです。

常識、そして円満なる世の中を言われるのです。ここの処が少し感覚が違っている様なのです。

 

信仰とは「ひもろぎ道」である。と、神様は申される。従って信仰はいかなる尊い神を、我が身に宿すことが出来るか、言うなれば、少しでも尊い上位の神を呼ぶ(招く)ことが出来るか、と言う事が実質(求道)の問題となっているのである。(これが目的でもある)

信仰とは、「生きる道」である、と神様は申される。生きる道とは、生活そのものを指す。生活のあり方に少しでも安定のある、他人から指摘されない内容を持っていないといけないのだ。

親子の在り方、夫婦の在り方、社会の在り方、経済の管理、教育の在り方、弟子との在り方、求道の在り方、全て全般のことに対してより完全なものに近づいていないといけないのだ。

自らが善を信じ、真を信ずることを、自信と勇気と決断を以って実行して行くことである。

信仰は霊的信仰を言う。今迄の世間で作られて来た様な信仰を言うのではない。心の中に在る霊の様な、霧の様なものとなって、自己の本心を隠しているものを取り払って行くことを霊的信仰と言う。全てはそれの心が作っているのだ。

 

信仰と言うものは、持って産まれたその人の霊魂の個性や使命と言うものがあって、その目的とするものの完成に関する事が重大事であって、一人一代限りのものである。

それは芝居の役者や落語家の襲名のごときものではなく、従って何代目(=名)と言う様な事はまずあり得ないものなのである。教団等に見られる様なものは正しい道にはない。もしあったとしたら、それは霊的系統の継承と言うものとは、まったく別のものとなっている。

霊的継承と言うものは、前途の様なものではなく、言うなれば、徳の継承と言うべきものとなっている。

 

正しい信仰は、全て「自己責任」であること、それは。信仰は「生きる道」であるのですから。生活すること・・・そのものが信仰であると言う事です。

神様から御神徳(神智)を頂いて、身近に発生して来る多くの課題を自分で解決して行かなければならないのです。他人との問題、お金の問題、物の管理の仕方等、多くの学びが人生の課題となっています。

その全てに智恵と愛情の使い方等が必要となっているのです。